「こころ(心)ころころ」という表現の通り、私たちの心は、いつも安定していなくて、コロコロと変わりゆくものです。
五官(人間が外界の事物を感じる五つの感覚器官。目・耳・鼻・舌・皮膚のこと)を通して、キャッチした情報に対して、意識が媒体となって、様々な感情を生み出しては、その感情に見合う思考を作り出しています。
もっと正確に言えば、五官の矛先(ほこさき)も、意識によって左右されていることを、私たちは、どの程度気づいているのでしょうか。
意識が、過去の出来事に向けば、その記憶を思い出して、感情を再び蘇らせることもあります。
心の作用は、何から何まで、意識が媒体となっています。
意識が媒体となっているということは、意識状態によって、色々な感情や思考が生まれているということになります。
「意識」って、何でしょうか?
一般的には、「起きている状態にあること」「自分が何をやっているか、認識できるレベル」等、医学的な表現や、宗教的な表現によっても、様々な見解があります。
但し、変わらないことは、「意識」は、目に見えないもので、「ここにある」とか、「あそこにある」とは、決して言えるものではありません。
そして、「意識」だけを経験することは、ほとんど皆無に近いことです。
なぜなら、私たちは、何かに意識を向けた時、その瞬間には、何かしらの感情と思考が、働く仕組みになっているからです。それが、肉体と意識の合体ということです。
そこで、次のような表現は、どうでしょうか?
「意識とは、心の質を決めるための基盤となる魂のこと(スピリット)」
例えば、こんな感じになります。
「あなたは、この1か月間、一日おきですが、朝、公園まで散歩を始めました。最近、いく度に、少し離れたベンチに座っている老夫婦がいることに気づき始めました。(意識が向きました) 年齢的には、自分の両親と同じ年ごろであり、一日おきに、その老夫婦を見るたびに、心地よいエモーション(情動)が芽生え、自分の両親を思い出して、次の休暇には、久しぶりに、両親に会いに行こうと思い始めます」
さて、この件(くだり)ですが、あなたが、散歩を始めた頃から、この老夫婦は、すでに公園のベンチに座っていましたが、あなたが、意識が向かなければ、その存在は、いなかったことと同じです。
また、一日おきの散歩であれば、この老夫婦も、一日おきに公園に来ているのでしょうか。
実際には、この老夫婦は、以前から、毎日のように、公園に散歩にきていた可能性もあります。
言いたいことは、私たちは、意識が、対象に向かわなければ、何も起こらず、次に芽生えるエモーションから感情、そして、それに見合う思考へと、繋がっていくことはありません。
ですから、意識こそ、私たちの本質であると言えます。
意識という説明の出来ない何かがあるから、感情や思考という「心」が生まれてくるのです。
この本質にこそ、魂(スピリット)が宿っているのではないでしょうか。
残念ながら、私たちの人生は、95%は、無意識の中で、生活をしています。
1日6~7万回の思考をすると言われ、それらは無意識の中で生まれ、おそらく昨日の思考も、今日の思考も、さほど変わらないことでしょう。
アインシュタインは、『いかなる問題も、それを作り出した同じ意識によって、解決することはできない』と言っています。
もし、日々の出来事や、外界の環境、心に思ったこと、行動を起こしたことでさえも、意識的に、観察者の立場になって、物ごとを客観的に(俯瞰して)見ることが出来るようになると、言葉では、言い表すことのできないような劇的な変化が、「心」に生じることになっていきます。
何故でしょう・・・(次回に続く)
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